日独の架け橋に

「ぽっぽの会」の成り立ち
1986年の日本は、後にバブル経済と言われたように好況の絶頂期で、多くの日本企業がドイツに 進出して、ミュンヘンや近郊在住の日本人も増加の一途にありました。 当時ミュンヘン日本語補習校の幼稚部は、4~5歳児のために1教室しかなく、20名が収容の限度で抽選制を取っていましたが、 私の娘(美樹)を含め8名の4歳児が抽選に落ちて幼稚部に通えないことになってしまいました。 言語形成期の子供がドイツのキンダーガルテンのみで過ごすことに、大変不安を感じているご両親方が集まって、 独自の幼児クラブを創ろうではないかとの話になりました。

「ぽっぽの会」の名前の由来
実は、1982年生まれの娘が未だ10ヶ月の赤ん坊の頃、高層ビルの立ち並ぶ西新宿に「ぽっぽ の会」は誕生しました。当時は「核家族」とか「育児ノイローゼ」という言葉がよく聞かれていました。 公園や兄の幼稚園の送り迎えで顔見知りになった近所の方々と一緒に、児童館を借り、0歳から幼稚園に上がるまでの幼児を集め、週1回一緒に遊ぶことにした のが、西新宿「ぽっぽの会」の始まりです。カウンセラーの先生も月1回来て下さり、育児相談も出来ました。「ぽっぽ」とは幼児語の「はとぽっぽ」や「汽車 ぽっぽ」の「ぽっぽ」から来ています。いくつもの候補からこの名前が、選ばれました。西新宿「ぽっぽの会」は、今でも続いていますので、22年目になりま す。 創立会議では、ドイツ語でお尻が連想されそうだとの意見もありましたが、多数決で決まりました。

ぽっぽの会」の協力者
当時は、日本語補習校がお借りしていた校舎に空き教室がなく、今もミュンヘン在住のツェンス 利枝さんが補習校近くのフォルクスホッホシューレ(VHS)に手づるがあって紹介して下さり、 夫がVHSの責任者と話し合った結果、借用契約書が交わされて無料で教室を借りることが出来ました。

当時の「ぽっぽの会」の運営
日本人会の会報に会員募集の記事を載せて頂くと、瞬く間に28名の幼児が集まり、1人の先生に お任せするのは、余りに大勢過ぎたものですから、毎回2・3名のお母さん方が交代で補助することになっていました。 父母全員が前期か後期の役員になって、それは和気藹々としたものでした。 忘れられないことは、NHKでも未だに「20世紀の顔」として紹介されるなどで有名なテノール 歌手の山路芳久氏(故人)の奥様方が編集を担当して下さり、毎月「ぽっぽちゃんだより」が発行され、 軽妙なタッチで書かれた記事を読むのが楽しみでした。カメラ気違いの夫は、亀吉と言う 変名で「亀吉パパの亀羅談義」を連載で執筆しました。

ぽっぽの会」年少組の誕生
会員は増え続けて35名になった頃、やはり1教室では大勢過ぎることから、 もう1クラスの年少組を誕生させて2クラスに分けることになりました。

初期「ぽっぽの会」の先生は?
レンツ博子先生 大阪市立小学校、養護教員として12年間勤務の経験のあった方です。 現在はご家族と東京に在住。時々お会いしています。 木佐和美先生  帰国後北海道にも「ぽっぽの会」を創設なさいました。最近の木佐先生からは 次のとおりのメールが寄せられました。 「北海道『ぽっぽの会』は3年後に終了しました。当時の子供たちは高校を 卒業してそれぞれ家、町を出ました。―中略―その後は私は中学校や専門学校の講師をして、 今日に至っています。ミュンヘンぽっぽの会は続いているのですね。素晴らしい。どうぞよろしくお伝えください。」

「ぽっぽの会」第1期生のその後
娘の美樹は、ミュンヘンから西ベルリン、フランクフルトと転勤族の父親と一緒に転々とし、 中学1年生の3学期に帰国しました。ベルリンでは「壁の崩壊」と「ドイツ統一」を眼前に見る との稀有な経験をし、子供ながらに事態の重大性を感じた様子でした。 娘が高校2年生になったばかりの時、父親は再びドイツ(ハンブルク)に転勤になりましたが、 大学生の兄と二人きりでの東京暮らしを選びました。その娘も今は22歳、今年3月に大学を 卒業して、国家公務員になりました。大学の卒業論文では「日本とドイツの環境政策」を書き ました。 「ぽっぽの会」第1期生にはドイツに留学したり、医学部で学んでいる人もいます。

ぽっぽの会」の子供たちに期待すること
現在は、ドイツにせよ日本にせよ、1カ国の中だけで仕事が済むことは少なくなっています。 世界的に繋がりを持ちながら、仕事を進める時代となりました。兄は中学3年生まで、美樹は 2歳から中学1年生までをドイツで過ごしましたので、日本語を教えるのは、私の役目だと 認識しておりました。夫は「文章を書けない若者が増えている」と常々言っておりましたので、 小学校に進学した子供達に対しては、文章としての日本語が書けるように、作文力を身につけ ように心掛けました。そのことが、社会に出てから大変役に立っているようで、日本語とドイ ツ語の文章作成を任され、重宝がられているようです。 言語形成期の3歳から10歳くらいの間に、2ヶ国語にふれることができた子供たちは、バイ リンガルとして国際舞台で活躍できる羨ましい存在です。「ぽっぽの会」の子供たちも、日本と ドイツをよく理解できる大人に育ってくれることでしょう。両国の架け橋になってくれること を期待しています。

ぽっぽの会」のご父母の皆様へ
「空いっぱいのダイヤモンド」という日・独両国語で書かれた絵本が、 「ぽっぽの会」やミュンヘン日本語補習校などに、ツェンス利枝さんを通じてご寄付されていると思いますが、 その絵本の著者(ペンネーム 若葉なつみ)が、この文章の寄稿者の若林倖子です。 私は、この度、絵本作家クラブの「絵本作家フェア」で金賞を頂きました。本になりましたら、また送らせて頂きます。 2005年4月には「オペラシニアーズ」というグループで、3幕のオペラ「椿姫」の主役 ヴィオレッタ役(6人で分配)を致します。湘南日独協会の「アムゼル」という合唱団の名づけ 親でもあり、その他日独関係のグループにも属しています。 今は、皆様、子育てに無我夢中でご自分の時間などは、中々持てない方が多いことと思いますが、 子育ての期間は、あっという間に過ぎ去ってしまい、今は、懐かしい想い出になっています。 「ぽっぽの会」で協力し合って子育てし、グループで楽しむ方法を経験することは、将来の参考に なるものと思います。私は、子供が社会人になった今、第二の人生を謳歌しています。 先日、娘の運転する車で、上高地、飛騨高山や世界遺産になっている白川郷を訪れて来ました。 このようなことは、子育ての頃は夢想もしていなかったことですが、現実の出来事になりました。 写真はその時に北アルプスを背景に大正池の岸辺で撮影されたものです。 どうぞ皆様も、お子様の今の姿を楽しんで下さい。